| 尾張本宮山・信貴山から博物館明治村
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| 2 | 博物館明治村 |
| 2-1 | 博物館明治村の誕生−谷口吉郎と土川元夫 |
| 博物館明治村: 愛知県犬山市内山1番地 tel.0568-67-0314 http://www.meijimura.com/ 古い建築をむやみに壊してしまっては、そこに関わった人の記憶も失われることになるから、できるだけ継承していこう−という考え方が、一般的になりつつある。 とても早い時期にそう考えていた人が、建築家・谷口吉郎であった。
明治村の用地となったのは、日本書紀にある「入鹿屯倉」(いるかみやげ)という地名はここかといわれる由緒ありそうなところ。 江戸時代には、潅漑用のため池が作られて「入鹿池」と名づけられている。 1920年代には、現在の明治村の所に「富士屋ホテル」が建てられたが、太平洋戦争開始後に陸軍の結核療養所として買収されたあと、戦後、跡地の一部が名鉄に買収されていた。 1967年に、フランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルが解体されることが伝わると、保存運動が起き、最終的に明治村が引き受けることとなった。 帝国ホテルは、大正期の建築で、本来、明治村が保存対象とする建築ではない。 しかし、開国まもない日本が、外国からの来客を迎えるために設立されたホテルだから、精神は明治にあるといえる。 また、同じ外国からの迎賓施設、鹿鳴館と、もとは同じ阿部播磨守屋敷跡の敷地に建ってもいた。その鹿鳴館は、明治村の設立者・谷口吉郎が、古い建築を残そうと考えた1つのきっかけである建物でもあった。 明治村には、谷口吉郎と土川元夫が学んだ第四高等学校物理化学教室も移築されてあり、2人の胸像が置かれている。 この2人のつながり(の最後)について、谷口吉郎は印象的な文書を残している。1973年暮れ、土川が体調を崩して入院したのだが、
こういう人たちの友情のおかげで、いくつもの失われかけた建築が救いだされて、今、僕らは、その建築に足で立ち、手で触れ、空間の中に身を置くことができる。 (壊されることを耳にすると、谷口吉郎は「救急車のように」駆けつけたという。) |
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