9月第1週
1916年9月3日に宮沢賢治が寄居を歩いてから90年
1916年(大正5年)9月1日から7日にかけて、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)の生徒たちが、秩父への地質調査に訪れた。
農学科第2部の学生で20歳の宮沢賢治(1896-1933)も加わっていた。
| 9月2日 午後に上野発。 熊谷泊(推定) 9月3日 熊谷発。寄居では立が瀬、象ケ鼻、荒川河岸を観察。皆野町の梅乃屋泊(推定)。 9月4日 馬車で小鹿野に行き「ようばけ」調査。寿旅館泊(推定)。 9月5日 三峯神社宿坊泊。 9月6日 三峯山を降り、秩父大宮の角屋泊(推定)。 9月7日 秩父大宮、本野上を経て、盛岡へ帰郷。 |
この時期の交通の整備状況と、幸田露伴、宮沢賢治が寄居・秩父方面に旅した時期を整理すると、こうなる。
| 1885(明18) 東京−高崎に鉄道開通 1896(明29) 熊谷−秩父大宮間に県道開通 1898(明31) 幸田露伴の秩父紀行 1901(明34) 上武鉄道 熊谷−寄居開通 1903(明36) 同 寄居−波久礼開通 1911(明44) 同 波久礼−金崎開通 1914(大03) 同 大宮(秩父)まで開通 1916(大05) 宮沢賢治の地質調査 |
露伴の旅は、熊谷まで電車に乗り、あとは整備されたばかりの県道を馬車を使って移動したと考えられる。
賢治は上武鉄道(今の秩父鉄道)に乗り、鉄道からそれたところでは馬車を使っているようだ。
賢治は行く先々で短歌を書き残していて、熊谷では八木橋デパート脇、寄居では荒川岸、小鹿野ではおがの化石館の庭に歌碑が建てられている。
| 寄居町の歌碑は荒川を背にした川岸にあり、2首刻んである。 毛虫焼く まひるの火立つ これやこの 秩父寄居のましろきそらに つくづくと「粋なもやうの博多帯」 荒川ぎしの片岩のいろ |
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それから90年。
宮沢賢治の秩父行の次の年にはロシア革命があった。
国内では大震災があったり、大戦争があったり、それから復興し、成長し、泡がはじけたりした。
また海外ではロシア革命以後作られた国家が崩壊し、宇宙では冥王星が惑星でなくなった。
90年間には当然いろいろなことが起きるし、90年という数字じたいに特別な意味があるのではないが、10進法の世界にいると、10年刻みに節目を感じる。
賢治は今でも人気作家であり、愛好者の団体が熊谷−秩父間にいくつかあるようだから、「宮沢賢治秩父旅行90周年記念」と冠した行事が、どこかであるかと思ったが、静かだった。
賢治には関心が高いから、あえてふれずに、幸田露伴の足跡をたどってみた。このあとも、賢治ほどに関心を寄せる人が少ない詩人の尾崎喜八とか、寄居に疎開していた画家、安井曾太郎、赤城泰舒といった人たちの足跡をたどってみようかと考えている。
しかし宮沢賢治でさえ、こんなにひっそりしたままというのが、なにか拍子抜けというか、寂しい思いになった。
参考:
- 『埼玉秩父と賢治 宮沢賢治の原風景・パート2』 萩原昌好 宮沢賢治記念館 1994

