| 大師山から平泉寺白山神社・福井県立恐竜博物館
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福井県勝山市平泉寺町平泉寺56−63 |
| 古代から信仰を集めた白山に詣でる人のために越前馬場があり、その地に創建された。 名前のとおり、神仏習合の寺/神社。 平安時代半ば以降は比叡山延暦寺に属して権力と結びつき、戦国時代に最大規模になった。 1574年、一向一揆の衆と対立し、村岡山(むろこやま)に一向宗の衆徒が築城したのを総攻撃にでたとき、留守をつかれて火を放たれ、滅びた。 ◇ ◇ 勝山市街から車で10分くらい走る。 歩いてはかなりきつい距離に離れている。 一方通行の狭い車道に並行して、石畳の参道が長く続いている。 1986年、日本の道100選「中宮平泉寺参道」、1996年、歴史の道100選「白山禅定道」に選ばれている。 数台だけの駐車場に車を置く。参拝のための駐車場なのか、隣接する食事の店の駐車場なのか、判然としないほどの、なんというかさりげなさ。 ここに来る前に永平寺に寄ってきたのだが、そこでは門前に店が立ち並び、こちらの駐車場へと客に手をふり、声をかける人があちこちにいた。 ここでは、鳥居に至るまでに、小さな茶店のような、土産物ような店が1軒(あるいは2軒、別の店なのか、同じ店なのか、棟続きで、これも判然としない)あったきりだった。 拝殿に向かう途中に御手洗池(みたらしのいけ)がある。 泰澄(たいちょう)大師が、養老元年(717年)白山登拝の途中に発見したと伝えられる。 これも泰澄大師が植えたと伝えられる三叉杉があって、上が3本に分かれている。白山3社をかたどる−というのだが、何だかできすぎた話のように感じるのは、僕に信仰心が乏しいせいか。 白山を開き、平泉寺の開祖でもある泰澄大師は、白山を飛び、数百年生きたというのだが、実在を否定する見方もあるらしい。白山と平泉寺をめぐる出来事が、何かと泰澄大師に結びつけて偉業とされてきたという。 庭園兼社務所がある。50円の拝観料を入れる箱が置いてあるが、気持ちで100円入れる。 絵葉書などを売っているが、置いてあるだけで、人の気配がしない。 この広い境内を維持するのには、近くの人たちの信仰があつく、神社の氏子であって、年に何回かの手入れに参加しているという。 奥まったところに拝殿がある。かつては正面の間口33間(柱の間が33間であって、実測では45間)という大きなもので、左右に残る礎石が往事の壮麗さを想像させる。 境内全体は広いが、今残る建造物はどれも小さい。杉の木が埋め尽くしている印象がある。一向宗に全山焼かれたあとに育った木なので、ほぼ同じ樹齢の木がそろっている。 木々を立たせる地面は、厚い、みごとな苔が覆っている。
この前に行った永平寺には、観光バスで団体客も訪れ、寺の中の案内のしかた、順路の設定など、多くの人を巧みに滞りなく流していくやり方は、まるでテーマパークを思わせる。 しかし永平寺は檀家をもたない。観光客からの収入で修行の場を成り立たせていく、それはそれなりに欠かせない努力だろうと思う。 一方、平泉寺では、1組の若い男女に行き会っただけだった。こういう霊気を帯びたような大空間が、観光地のようにもならず、荒れてしまうこともなく、静かなまましっかりと存在しているのが奇跡のように思われる。 ◇ ◇ 「発掘現場⇒」と書かれた案内板に誘われていってみる。 うっそうとした森を抜け出て、明るい畑地を歩いていくと、細い農道の先が石畳の道になっている。 江戸中期の『平泉寺境内図』には、33間の大伽藍、左右の北谷と南谷に「平泉寺六千坊」といわれる計6000の僧坊が描かれているが、1989年からの発掘調査で、ほぼ図のとおりにあったことが確認された。 1935年に白山神社境内約14.6haが国の史跡に指定されたが、発掘調査の結果をうけて、かつての境内全域約200haが国史跡に追加指定された。
道路には石を敷き、側溝をそなえ、整然とした屋敷割がされていた。自然発生的な集落ではなく、土地を造成し、きちんと区画を区切って、新興住宅地のよう。 かつての規模に比べれば、まだわずかの距離だが、古い道が石を敷いて復元されている。 かつて伝説だったところが、発掘して事実だったことが確認される−ということで、出雲大社や、シュリーマンのことを思い起こす。 なんだかすごい場所を踏んでいるのだと、じわっと感激した。 |
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