| 安芸小富士から平和記念資料館・ひろしま美術館
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| 4−2 | 世界平和記念聖堂/村野藤吾 |
| 広島市中区幟町4番42号 http://www.nobori-cho-catholic.com/ キリスト教が禁止されていた時代が終わり、広島に教会ができたのは1882年。幟(のぼり)町に作られ、山口町、研屋町と移転したあと、ふたたび幟町に移ったのは1902年。借地で、のちに買い取ったが、元の所有者は原民喜の生家であった。 ◇ ◇ 1945年の被爆のとき、聖堂と司祭館があり、聖堂は崩壊、頑丈に作られていた司祭館は爆風にはもちこたえたが、火災で焼失した。 ひとまず原爆にも耐える司祭館を設計したのは、ドイツから来日していたグロッパー神父。1923年の関東大震災後、東京四谷の上智大学を再建するために派遣されてきた。 その、大震災で失われた上智大学校舎は、広島県物産陳列館(原爆ドーム)の設計者、ヤン・レツルの設計によるもので、1915年に竣工している。 大震災より前の小さな地震ですでに被害が発生していて、補強工事をしたにもかかわらず、大震災で大きな亀裂が入り、1月ほどたった10月4日に崩落している。 建築技師のレツル氏はどのように言いましたか。地震には安全です。基礎はコンクリートで、壁は丈夫な鉄の締め金で結合されていますし、普通の地震なら十分持ちこたえられますなどと。ところが1923年9月1日のあの大震災に見舞われたのです。そして10年間そびえていた校舎は大損害をうけ、2階と3階は取り除かれねばなりませんでした。 (ヒリヒ師の日記 「上智大学史資料集第2集1913−1928」 上智大学史資料集編纂委員会 上智学院 1982) ( → [ 原爆ドーム ] [ 宮島歴史民俗資料館 ] ) そういう経験を経たあとで招かれたのがグロッパー神父で、新しい校舎と聖イグナチオ教会を設計し、その後、広島に移り、被爆にも耐える司祭館を設計した。 グロッパー神父は、戦後、世界平和記念聖堂が村野藤吾によって設計を進められる際にも関わり、村野がついこぼすほど厳しい意見をよせたといわれる。 世界平和記念聖堂が現在のような姿に建っていることには、グロッパー神父の影響も大きいと思われる。 ◇ ◇ 原爆時に失われた聖堂の再建にあたり、ラサール神父(戦後、帰化して愛宮真備(えのみやまきび))は、1教会ではなく、世界の平和を祈念するものにしようと考え、海外まででかけて協力を訴え、外国から多くの資金や備品が提供された。 聖堂建設の後援会長をつとめた土井正夫の回想− 雪のチラチラ降る日だったと思いますが現在の神父館が建っている所が元の神父館で、その高い土台の上に立って夕暮れの街をずっと眺めておられるのがラサール神父様でした。 ・・・ 「土井さん、沢山の人が死にました。この死んだ人の霊魂はどうなっているのでしょうか」 こう云われた時に私は、頭から冷や水をかけられたようにジーンとしました。 神父様は、その時に、 「私はこれから世界中を廻ってこの被爆者のために、その霊を慰める聖堂を建てたいと思う」とおっしゃいました。 ・・・ ラサール神父様のその決心が、この記念聖堂を建てる出発点だったと私は思います。 (「世界平和記念聖堂 広島にみる村野藤吾の建築」石丸紀興 相模書房 1988) 建設にあたっては、戦後1948年にコンペが実施された。 グロッパー神父の縁で上智大学の教室を使って審査が行われた。 1等がなしで、2等2点のうちの1つが丹下健三案。3等4点のうちに前川国男案と、菊竹清訓案があった。 1等がなかったために、審査員の1人、村野藤吾が設計を引き受けることとなった。 コンペで当選案を選べなかったうえ、審査員が設計したこと、コンペ実施にあたって示されていた面積5,947uが、村野が設計したときには12,686uとほぼ2倍に増えて、仮に当選案を選んでいても、原案どおりに建てられたとは考えられないことから、このコンペはほとんど意味がなかったことになる。 軟弱な地盤、建築資材の不足、戦後の猛烈なインフレなど、さまざまな困難を経て完成し、1954年8月6日に、献堂式というものが行われた。 ◇ ◇ |
| コンクリートの柱と梁の枠組みの中にレンガをはめこんでいる。ドイツの建築家、ポール・ボナッツが設計したコルンヴェストハイムの給水塔を参考にしたという。 地盤が軟弱であることから、モルタルと砂で中空のレンガブロックを現場で制作して使ったとのことで、写真では茶色が強くでてしまっているかもしれないが、実際に見る印象では灰色に近い。 周囲をめぐってみると、大きな建物なのに威圧感がない。白い枠に囲まれた灰色のレンガブロックという単位を積層した壁面は、視線を柔らかく受けとめて、遠くの山を遥かに眺めているような印象をもたらす。 その色合いと、ざらっとした仕上げから、古びて落ち着いた味わいがでている。ヨーロッパの古い街にいるような雰囲気を漂わせていて、しかも窓の形や、奥の花びら形の屋根が日本的情緒も感じさせる。 ところどころレンガブロックがとびだしていて、村野藤吾はもっと不規則にしたかったらしいのだが、全体の雰囲気からして、ランダムな感じのほうが確かに似合っていると思う。 |
(正面入口の欄間状の格子。今井兼次のアイデアで、彫刻家武石弘三郎が模型を制作し、彫刻家円鍔勝三(えんつばかつぞう)と坂上政克が制作した。) ◇ ◇ 建設当時は、まだ広島が復興の途中で、聖堂から南の方向を写した写真では似島の安芸小富士が見えていた。 今は市街地にすっかり囲まれている。 すぐ隣に、この聖堂と関係ある音楽大学が大きな建物を作ってしまって、聖堂と街を隔てる壁のようになっている。 平和記念資料館が都市の軸を作って、以後の街づくりに影響を与えたのに、ここではむしろ関連のある建物なのに、さらに都市のつながりを広げていくどころか、ただそれぞれにあるという具合になってしまっているのが惜しい。 参考: 「世界平和記念聖堂 広島にみる村野藤吾の建築」石丸紀興 相模書房 1988 「上智大学50年史」 J・ロゲンドルフ編 上智大学出版部 1963 「上智大学史資料集第2集1913−1928」 上智大学史資料集編纂委員会 上智学院 1982 「レツルの黙示録」 オルガ・ストルコバ 佐々木昭一郎訳 日本放送出版協会 1995 村野藤吾の美術館: 編笠山(八ヶ岳)から八ヶ岳美術館 駒ヶ岳から谷村美術館 湯ノ丸山・烏帽子岳から小諸市立小山敬三美術館 角田山から新潟市( とその近郊 ) のミュージアム |
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