| 入笠山から (旧)富士見高原療養所・富士見町高原のミュージアム |
| 3-2 | 尾崎喜八 |
| ■■■■■■ つらい状態から回復すること |
| 尾崎喜八は戦争中、戦いを讃美する詩を書いた。それまではマイナーな詩人だったのに、そういう詩のひとつ、「此の糧」により広く知られるようになったという。 しかし、戦争讃美−戦闘的・攻撃的な詩だろうという先入観からすると、意外な調子の詩なので驚いた。
戦後の食糧不足のときには、芋や豆が米のかわりにほとんど主食になり、「また芋か..」と恨めしい思いで食べたらしい。この詩集は1942年刊行だが、もう「節米」のために食べていたことになる。この詩を読むと、ほかほかの芋を食べたくなるほどだが、このあとも詩人が飽きずにこんなふうに芋を食べ続けられたかどうかは、わからない。 ともかく、尾崎喜八も知らなければ、戦争詩についての関心もとくになかったから、意表をつかれる詩だった。
こういう文語調のいわばハードな戦争讃美詩もあるが、それに対してソフトな讃美詩とでもいおうか。 詩集「此の糧」におさめられた詩には、むきだしの好戦的な表現はあまりない。むしろ戦いは正しいものであるという信念に支えられているので、そういう見方からすれば倫理的で格調高いとさえいえるくらいだ。崇高な理念、その実現の任務に決意をもって向かっていくりりしい若者たち、それを支える女たち。 実際には、理想をとなえた戦争は、大量の残酷、悲惨、腐敗をおびていた。尾崎の詩にも、若者の死や、母の悲しみは影をさすが、それすらも尊い犠牲として、浄化された言葉になる。 同志としての国民に対してさえそんなふうだから、まして悪であり殲滅されるべき敵への想像力など働いていない。 ◇ ◇ 戦争後、尾崎喜八はこのことを悔いる。
戦いを肯定する詩を書いたことで、親しかった人が離れていき、あるいは批判を受ける。体調も悪くし、経済的にも苦しい状態で、長野県富士見にある別荘の一部を借りられることになり、1946年に移り住む。
富士見は、ただ自然に恵まれているだけではなく、文学や科学に深い関心を寄せる人にとって、いい意味で油断がならない、刺激的でもある土地であった。
毎日、田を耕してだけいるかのような人が、じつはとんでもない植物の知識を持っているというようなことが、この詩の農民だけの特異な例ではなく、このあたりでは当たり前のこととしてある。 僕もこういう富士見の人に実際に出会ったことがあって、いったいどういうことだろうととまどっていたのだが、尾崎喜八を読んでいて、信州のこの地方の独特の風土であることを知った。その風土がなぜできたのかは、やはりわからないままだが。 (→[釜無山から井戸尻考古館](準備中)) およそ10年前に、やはり病気と、窮乏とで富士見に来て高原療養所に入院した竹久夢二は、そのまま回復することなく亡くなったのだが、尾崎は、家族と、富士見の自然と、好意をよせる人々の援助もあって、回復していく。 ◇ ◇ 落ちこんだ状態からの回復ということについて、僕も身に覚えがある。 10年ほど前、仕事のストレスで肝臓を患った。 そのころ、母親が癌にかかっていて、死がほぼ確実に迫りつつあった。見舞ったり、ときおり家に帰る母を病院まで車で送り迎えしたりしながら、僕は癌ではなかったけれど、母の癌とまったく同じ位置に病因があり、ときおり発作的に痛みがくると、今度は自分が妻の運転する車に乗せられて病院に行った。 ふつう肝臓を傷める原因である酒にも薬物にもウイルスにも縁がないので、ストレスと遺伝で傷んでいるとしか思えなかった。 母が亡くなって、翌月、僕も手術を受けた。ようやく退院したら、その夜また出血して翌日に再入院というようなこともあって、もともとストレスで傷んでいた気持ちが、あらためて打ちのめされるようだった。 退院後、しばらく静養した。穏やかに日を送っているだけだが、気力がなかなかよみがえらない。 とくにひどい状態だったと思うのは、のんびりと映画のビデオでも借りてきて見ようとしても、サスペンスやスリラーなんてとんでもないことだが、コメディでさえ安心して見ていられなかったことだ。主役が、何か失敗したりして、その事情を隠しておかなくてはならない−というパターンがよくある。いつばれるか、ちょっとはらはらさせられる。他愛もないことなのに、それがたえられない。身構えながら見ていて、少しでもはらはら的展開になりそうだったら、すぐにやめる。 散歩にでて、藤棚の下で藤の花の香りをうっとりとかいだりするのは、気持ちが安らいだが、遠くの山を眺めても、いつかまた山を歩けるだけの体力、気力をもてるだろうかと、とても遠い気分になった。 夏、ようやく仕事に出られるようになって、毎日通りかかる公園で白い木槿(むくげ)の花が、暑い日射しに負けずに花びらを空に向けているのに励まされる思いを受け取ったりした。 なんとか山歩きもできるようになるまで、ゆっくりと時間が経過するのを待たなくてはならなかった。 (今でもちょっとしたはらはらが耐えられない傾向が消え残ってしまっている。) 尾崎喜八の富士見での詩作と、そのときどきの思いを自註として加えた「自註 富士見高原詩集」(星雲社 1984)を読み進むと、自分自身の回復の記憶を思い出した。 ◇ ◇ 高原療養所に入院していて、文学や音楽に関心がある人たちが、分水荘に行くのを楽しみにしていて、尾崎もまたその人たちを喜んで迎えたのは、もちろんそうした文学や音楽への愛好という共通性もあるだろうが、回復していく者どうしの共通する思いもあったろうと思う。 療養所から退院する人がでるたびに、分水荘で別れの会が開かれたという。やがて、尾崎自身も、東京に復帰させたいと願う娘が用意した東京都世田谷区上野毛の住まいに、1952年に移る。 富士見には6年あまり暮らした。
高原療養所に入院していた青年達と尾崎喜八のいわば同窓会は今も続いていて、尾崎喜八が名づけて穂屋野会という。 尾崎喜八が亡くなったあとは、その命日(2月4日)に近い2月の第1土曜日に、その旧・青年たちを含め、尾崎を慕う人々があつまる蝋梅忌(ろうばいき)も催されている。 |
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