青木繁をめぐる旅


 6 青木繁と黒田清輝

 フランスに留学して西洋のアカデミズムに学んだ黒田清輝は、見たままだけをかくのではなく、そこに歴史や思想を盛り込むべきだと考えていて、五百城文哉に紹介されて滞在した日光で「昔語り」を完成した。戦災で失われているが、写真で見る限り、完成作は田舎芝居の1場面のような滑稽さがある。(この作品にかけた黒田の意気込みは大きなもので多数のデッサンなどが残っているが、きっかりとした描写で、紙に描かれた像が強く立ち上がっている。完成作よりいい。)

 黒田の「昔語り」完成は1898年。5年後の1903年、第3回白馬会展に青木繁の「神話画稿」が出品された。黒田のめざした「構想画」を実現していて、黒田の期待も大きかったろうと思われる。第1回の白馬会賞授賞。

 青木の方では、フランス帰りの黒田に反発して美術学校では黒田の授業をボイコットしていたと熊谷守一は語っている。しかし、反発するばかりではなく力を認めていたと思える。
 黒田に「智、感、情」という作品がある。「昔語り」の翌年1899年の作。女性のヌ−ド3点組。1点が縦180cm、横100cmという大きなもので、それぞれが「智、感、情」を現すという、これも「構想画」をめざしたものだった。「智、感、情」と各ポ−ズとの関係がすっきりつながらないけれど、金地の背景に黒い輪郭線をもって女性の体が描かれ、輪郭のところどころに向こうからの光が輝いていて、独特の存在感をもって迫ってくる。西洋のアカデミズムとはやはり違うが、西洋にも日本にも、前にも後にもない、独創的なヌ−ド作品になっている。
 一方、青木には1905年頃の作品に「真・善・美」という作品がある。僕はまだ現物を見たことがないが、135×45cmの縦長の画面の3点組。タイトルといい、形式といい、黒田の「智、感、情」を思わせる。鉛筆でかいた、大作のための下書きのようだが、黒田を認め、意識していたのだと思う。
 1907年の東京府勧業博覧会で黒田は審査主任をつとめていたが、「わだつみのいろこの宮」は3等賞末席(3等賞10人のなかでもいちばん最後)であった。

 東京国立博物館のすぐ先に、黒田の遺志で設立された東京国立文化財研究所がある。
 展示室には高村光太郎作の黒田清輝像が置かれている。したたかな顔つきで、政治力もあり、栄誉も権力ももった人で、貧困のなかで早く死んだ青木とはいかにも対照的な人物のようにみえるが、それでも何か瞳の奥のほうに孤独を宿しているように感じられる。またすぐ近くの壁面にある「昔語り」のデッサンのすがすがしい明快さ、あるいは絶筆といわれる「林」やその直前の「梅林」の、どこかこの世のものとは思えないような空漠とした風景画を見ると、また違った感慨がわいてくる。


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