越前岳からビュフェ美術館・井上文学館



ベルナール・ビュフェと岡野喜一郎(2人の年譜つき)


ビュフェ美術館の創立者・岡野喜一郎が初めてビュフェの作品を見て感動したのは、20代後半、戦争から戻って上野の美術館で出会ったときだという。

 顧みればビュフェとの出会いは、かれこれ四十年をこす昔のこととなった。
 その最初の出会いは、戦後はじめて彼の作品展が日本経済新聞により上野の古い都美術館で催されたときである。
 数年にわたる戦争から復員したばかりの私は、感動して彼の絵の前に呆然と立ちつくしたことを思い出す。
 その錆(さ)びた沈黙と詩情に、私は荒廃したフランスの戦後社会に対する告発と挑戦を感じた。
 当時のわれわれ青年を覆(おお)っていた敗戦による虚無感と無気力さのなかに、一筋の光芒を与えてくれたのが彼の絵であった。
( 岡野喜一郎 「 時代の証人 我がビュフェ 」 日本経済新聞 1987.11.14)

引っ掻くような黒い輪郭線、寂しい色、ポキポキ音を立てて壊れそうな細い人体。
悲哀や、虚無や、詩情をあわせ漂わせる作品。
ビュフェがその時代の空気を鮮やかに表現して圧倒的に迎えられたことを示す証言がいくつかあるが、たとえば 

かっこよかったですよ、デビュー当時のビュッフェは。絵も本人も。才能のかたまりみたいな絵。神経質でリリックで、なんともたよりなげなのに、どこかやさしい表現がある。洋の東西をとわず、終戦直後の若者が抱えてた不安とか暗さとか、みんなが感じてたことをイチ見っけみたいに絵にして、注目を浴びて……
(加山又造「僕は見て見ぬふりをしていた」芸術新潮 2000.3月)

そうした作品の衝撃は、同時代の空気を吸わなかった者には、もう1つ実感しきれないが、かっこよかったことは今見ても素直にうなずける。
1958年に写真家リュック・フルノルが、後に結婚することになるアナベルとビュフェサン・トロペで写した写真。白い壁の前の椅子に並んで腰かける2人。白いシャツのビュフェが瓶の飲み物をグラスに注いでいる。写真では黒く写るタートルネックのセーターを着たアナベルがその手元を見つめている。アラン・ドロン主演のフランス映画の1ショットのようだ。

後半生、ビュフェは奇妙な作品を量産している。
毛沢東、シャルル・ドゴール、クリスチャン・ディオールの肖像画。
日本に来れば、相撲とりや、金閣寺の湖畔に立つ和服で吊り目の女。
大好きなもの−スポーツカーの絵、大きな昆虫の彫刻。
栄誉も、大きな収入も、大衆的人気もあるが、芸術的には酷評され、太って、若い頃のかっこよさも失われる。

そうしたビュフェの変化を岡野は、画廊との契約で多産を迫られるので、自ずと失敗作もあると冷静に見ているのだが、その岡野自身が、青年期の不安と焦燥を抱えた時期を過ぎ、銀行の頭取になっている。この頃のイタリアやフランスへの紀行文を刊行しているが、それは半ばはヨーロッパの歴史を訪ねる旅だとしても、あと半ばはグルメ紀行であって、行く先々での、食べた店、食べたもの、飲んだワインの品定めがこまごまと繰り返される。
あいだに挟まれる写真には、美しい妻が1人で、あるいは岡野と並んで写っている。
ほとんどビュフェの変化とパラレルに年齢を重ねているかのようである。

そしてもう一度、ビュフェは見事なしめくくりとしての最期を選ぶ−1999年10月4日、自宅で、ビニール袋を頭からかぶり、首の回りをガムテープでしっかり押さえて自殺した。この頃にはパーキンソン病で手が自在に動かず、思うように絵を描けなくなっていた。

自殺の3日後、テレビで「オマージュ ベルナール・ビュッフェ」というドキュメンタリー番組が再放送されていた。(中略)老いたビュッフェは口ごもりながらこう語っていた。
「歳を重ねるに従って自由になった。老いることは決して悪いことではない。70歳になったとき、人生で一番幸せなときだと思った。私はいま何でも好きなことができる。前よりも穏やかになったし、日常の雑用もしない。絵描きになって生活できるのだから、描くことが大切なんだ。描けなくなったときのことを考えて、何回も自殺を考えた。自殺を考えない人間はバカだ。去年の夏はエネルギーもなく、散歩もできず、何もできなくなって辛かった。犬3匹とアナベルと私の5人で、いつも散歩していた道順を目で追うことしかできなくなってしまった」。
(夏目典子「自らをゴミにした男」芸術新潮 2000.3月)

もう生きていたくないと思っても自分では死を選べないような状態におちいってしまうことは怖ろしい。体が自由に動けなくなり、いつも誰かが付き添ってくれていて、アブナイものは身近に何もない−ビュフェの最期は、時を間違えずに自分の生き方を選択すべきことを教えているかのようである。

画廊主のモーリス・ガルニエ氏を訪ねてみると、「実はベルナールの死の1週間前、彼が最後にパリを訪れた際に本人から直接、『死のうと思う』と告げられたんだ」と、打ち明けてくれた。51年間、ビュッフェ夫妻と家族同様のつきあいをしてきたガルニエ氏は淡々と続けた。「私は彼が一番いいときに自殺したと考えています。彼は自分の能力が日々衰えていくことに我慢がならなかった。マティスは晩年、絵が描けなくなってからは切り絵を制作したが、ベルナールはそういうタイプではない。これ以上病気が進むと、自殺さえもできなくなっていたでしょう」。
(夏目典子 前掲)

岡野喜一郎は、その4年前に亡くなっている。もし順序が逆であったら、岡野喜一郎はビュフェの最期にどういう思いをいだいたろうか−ということも考える。



年譜(黒字:岡野喜一郎  赤字:ビュフェ

1895     株式会社根方銀行(改称前の駿河銀行)設立 初代頭取岡野喜太郎
1917     岡野豪夫(2代頭取)の長男として小田原に生まれる 
1928     7月10日、パリに生まれる
1941(23歳)慶應義塾大学法学部卒業 三井銀行に入行
1942(24歳)陸軍に入隊
1943(15歳)1年間国立美術学校で学ぶ
1945(27歳)陸軍を除隊 三井銀行に復職
1945(17歳)「毛をむしられた若鶏」など本格的な作品を生み出す
        毎日のようにルーブル美術館を訪ねる 母の死
1947(19歳)アンデパンダン展、サロン・ドートンヌに出品、注目されはじめる
1948(20歳)「批評家賞」を受賞(裸体2点)。
        20代で3000点を制作
        (生涯では8000点。うち2000点をビュフェ美術館が所蔵)

1949(31歳)三井銀行を退職 駿河銀行に入行 横浜支店設立準備副委員長
1949(21歳)アニエス・ナンケットと結婚(1年で離婚)。
        ロールスロイス2台、南仏エクス・アン・プロヴァンスのシャトー購入。

1950(32歳)横浜支店次長
1951(23歳)3部作「キリストの受難」を制作(その中の2点はビュフェ美術館蔵)。以後毎年テーマ制作を続ける (最期の年は「死」であった)
1954(36歳)取締役就任
1958(40歳)常務取締役就任 「リィヴィエラの旅」(美術出版社)
1958(30歳)アナベルと結楯。パリで大回顧展
1957(39歳)2代頭取 岡野豪夫 就任
1960(42歳)「ロワールとイタリアの旅」(美術出版社)
1961(43歳)「一九六〇年夏ソビエト」(美術出版社)
1964(46歳)2代頭取岡野豪夫急逝 3代頭取に就任
1970(52歳)芹沢文学館開館 理事長に就任
1971(53歳)「チャートウェルのチャーチル」(西武印刷)
1971(43歳)フランス政府からレジオン・ドヌール勲章のシュヴアリエの称号
1972(54歳)経団連理事  スルガ平に文書保存所・研修所完成
1973(55歳)ビュフェ美術館・井上文学館開館 理事長に就任
   (45歳)
1974(46歳)バチカン美術館に「ピェタ」「受胎告知」などの大作6点
        フランス・アカデミー会員となる
1975(57歳)駿河銀行創立80周年記念事業としてスルガ平に尚古館完成
1976(58歳)「冬の泉」(凸版印刷)
1980(62歳)「ビュフェと私」(西武印刷)
1981(63歳)代表取締役会長に就任
1983(65歳)小島伝記文学館・伝記図書館 岡野喜太郎翁記念社史図書館 開館
1986(68歳)岡野賞を創設 日伊文化学術の交流に貢献したイタリア人への賞
       「ベルナール・ビュフェのこと そのほかのこと」(西武印刷)
1987(69歳)「カルカソンヌの月」(ダイアモンド社)
1987(59歳)日本を縦断する大泉模なビュフェ展が開かれる
1988(70歳)作品の所蔵数が1,000点をこえ、ビュフェ美術館新館開館
   (60歳)
1995(78歳)自宅で死去
1996(68歳)ビュフェ美術館第2新館(版画館)増設
1999(71歳)自殺



1850 1900 1950        2000
1907       井上靖      1991
1896            芹沢光治良    1993
1928 ベルナール・ビュフェ1999
1917       岡野喜一郎    1995
1928       菊竹清訓 


* 岡野喜一郎は、同じ菊竹清訓設計で沼津市に芹沢文学館も創立している。 [ 鷲頭山から芹沢光治良文学館・若山牧水記念館・K美術館 ]、 [ 菊竹清訓 ] 参照

次へ→


このコースのはじめ越前岳 ビュフェ美術館に行く / ビュフェと岡野喜一郎 /
LINK・問い合わせ先TOP