| 鷲頭山から芹沢光治良文学館・若山牧水記念館・K美術館 |
| 芹沢光治良文学館 |
| 静岡県沼津市我入道まんだが原 tel.fax .055-932-0255 10:00-17:00 ( 3- 10月 ) 10-16:30 ( 11-2月) 休館:水曜日 12/26-1/7 芹沢光治良(せりさわこうじろう)は1896年、現在の沼津市の生まれ。1993年没。 東京帝国大学を卒業後、官吏になり、エリートコースをめざしてフランスに留学。結核にかかって療養中に作家を志し、帰国後、「ブルジョワ」でデビュー。代表作「巴里に死す」「人間の運命」など。 僕の知っている芹沢光治良は、それくらいで、まっとうなリアリズムの人だと思っていた。ところが、「神の微笑」以後の晩年の連作を最近読んで驚いてしまった。 神と宗教をめぐって書いているのだが、樹木と会話したり、死んだ妻が現れて懐かしんだり、天が祝福する音楽が聞こえたり、非現実的なことが次々とでてくる。 「僕は本当のイエスの若い姿を、この目で見たし、八十歳の釈迦が菩提樹の樹陰から起き上がり、高い山の方へ向かうけだかい姿をも、見た。」 ( 「神の微笑」 新潮社 1986 )などどいうのまであって、リアリズムどころではなかった。しかも当人は実証主義者を任じていて、1つの不思議に対して、別な角度から裏付けをとることを試し、確認したようにいうので、ただの絵空事ではないのだろうかととまどってしまう。 最後の作、「天の調べ」(新潮社 1993)の結び− これでよしと、ペンをおいて、大きく呼吸したが、どこからか微かに声がしていた。 (今年こそ、人類にとって、陽気暮しの朝明けだよ。喜びや幸せを予告するお正月を、たのしみなはれや−−と。天から聞こえるようで、聴き耳をたてると、足もとから聞えた。親神が驚くような喜びの便りを、下さるからなあ・・・と) (1993年1月20日) 間違えたり迷ったりばかりしている身には、いつか自分にも「陽気暮し」の時期があるのだろうかと考えてしまう。 芹沢光治良は、高齢になってすばらしく飛んだ文章を書き続け、このあとまもなく3月23日に96歳で亡くなった。 故郷に立派な文学館が建っているが、作家と故郷の関係は単純ではなかった。 村の慣行に反して中学校に入学したことだけで、故郷の人々から、「村八分」のように扱われたが、その後役人になった頃から多少村人の目も変ったのに、折角「洋行」までしたのに、小説家などやくざの仲間入りをするとはと、再び軽蔑されたようなので、ますます故郷に背を向けてしまいました。 (「或る女流詩人への手紙」 こころの波 新潮社 1982 所収) 作家としての成功後、中学校の後輩が、井上靖と芹沢の文学碑を故郷に建てたいという意向を伝えてきて、故郷との関係が復活した。1970年に沼津市名誉市民に推され、同じ年、文学館も建てられた。 都内に住む芹沢は毎年訪れて文芸講話をしたという。 芹沢光治良は処女作「ブルジョワ」を発表した2年後に「明日を逐うて」という中編小説を朝日新聞に連載。その挿絵を小山敬三が描いた。小山敬三の夫人マリルイズが切り抜きして持っていたものを、夫人の死後、小山敬三が芹沢に贈り、文学館に収められている。 * [ 湯ノ丸山・烏帽子岳から小諸市立小山敬三美術館 ] 参照 |
| 建物は菊竹清訓設計。壁構造の4本の立方体が立ち、そのあいだがロビーになっている。 入口からロビーに入って見回すと、4本の立方体の1つは受付、2つが展示室になっていて、残る1つは階段室という面白いつくりをしている。 外側はコンクリ−ト打ち放しの壁がのっぺりした面を見せているが、内部では赤みをおびた木のドアや、一部だけ使われた障子などが、目を楽しませてくれる。 階段室の最上階の梁から吹き抜けに吊された照明があり、浮きを模してガラス球を網が包んでいる。海が近い。 地下1階には考える部屋がある。床に小石を敷き、ベンチを置いてある。 2階の展示室の中央では、友の会の人たちが芹沢作品の読書会を開いていた。 読書会なんて懐かしい。 芹沢光治良文学館を開設したスルガ銀行元頭取・岡野喜一郎は、長泉町にビュフェ美術館・井上文学館も開設している。 設計は同じ菊竹清訓。 → [ 越前岳からビュフェ美術館 ・ 井上文学館 ] [ 菊竹清訓 ] 参照 |
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