京路戸峠から佐野市立吉澤記念美術館で若冲を見る/
ライシャワーとアントニン・レーモンドと松方家の人々



 1  京路戸峠


0:00 京路戸公園
 
東武佐野線多田駅から東へ向かい、秋山川を渡り、田沼工業団地を抜けると公園がある。段々畑のようにテニスコートがある。
その向かい側の駐車場に車を置く。




木立の下からすぐ山道になる。
工業団地とテニスコートの公園を抜けてすぐにしては、なかなか山道っぽい山道で、細い、ごつごつした道を上がっていく。


0:10 京路戸峠
 
10分ほどの登りで、もう峠に着いてしまう。
3つに道が分かれているT字路の峠で、正面には谷を隔てて別の尾根がある。
左に行くと村桧神社1.4km。右に行くと唐沢山神社2.9km。
戻れば多田駅2.5km。
ベンチが置かれているので、こしかけて昼にする。

わずか10分の登りだが、今日は、ここに来る前にひと山行きかけてきた。
葛生は石灰産業の町で、つまり近くの山が石灰岩なので、いかにもそれらしい採掘をしている山にのぼろうと思って、大鳥屋山(693)というのに行ってみた。
山口バス停から入ると、期待どおりに採掘現場そのものの中に入り込んでしまった感じの道になるのだが、そこから先までしばらく歩いてみても、車も通れる林道がえんえんと続いていて、面白い眺めがなさそうなので引き返してきた。
時間も腹具合もちょうど昼飯時になっている。




遠くの尾根の葉は揺れていないのに、間にある低い尾根の葉がゆらりゆらりと風にそよいでいる。
こちらにもときどき気持ちいい風が吹く。
谷間を風が吹き抜けているようだ。
町なかからわずかの距離なのに、ベンチと道標識のほかには、めざわりな人工物がなく、意外に隔絶した感じがある。
いい峠である。


0:15 諏訪岳分岐
 
一休みおえて、左の村桧神社に向かう道に進む。
まもなく左に諏訪岳にのぼって行く道が分かれるので、行ってみることにする。
急坂を上がる。
眺めが広く開けた点があって、右端に男体山があり、赤城方面までパノラマが広がる。



0:25 諏訪岳
 
諏訪岳  (323.7)山頂は、狭い円形の山頂で、展望はよくない。

0:35 諏訪岳分岐

0:40 村桧神社・
    大慈寺分岐
 


右に下ると大慈寺、直進すると村桧神社という分岐にでる。
直進して村桧神社に向かう。
階段をずっと下っていく。


0:48 展望地点
 
展望が開けた小広場にでる。
東北地方に向かう高速道路が走っている。
そこで山道は右に折れて、ジグザグ道をくだっていくと村桧神社に至る。

0:55 村桧神社

 
本殿の手前に小さな社があって、鳥居の上側の柱は自然木そのままで、先端が太くそっている。
由緒ある神社で、大化2年(646)年にはじまる。延喜5年(927)制定の延喜式(法律の施行規則)の中の神名帖に記載されているという。
本殿は室町時代に建立。
三間社春日造(さんけんやしろかすがづくり)という様式で、桧の皮を竹釘でとめた桧皮葺き(ひわだぶき)の屋根。
明治41年国の文化財指定を受けている。

ほとんど自然木のままの鳥居 村桧神社の本殿

-  小野寺山大慈寺  すぐ隣に大慈寺(だいじじ)がある。
天平9年(737)、行基(ぎょうき)が開山した天台宗の寺。
後に天台宗第3代座主になる円仁(えんにん)が9歳から15歳までここで修行した。
円仁794-863は、栃木県の岩舟町か壬生町の生まれ。
838年から847年まで、44歳からの10年間を遣唐使として中国に渡って修行した。
この間の記録が、「入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいぎょうき)」で、元アメリカ大使ライシャワーは、この翻訳と研究で博士号をとった。
その縁で大使時代の1964年にここを訪れたときの記念植樹と記念碑がある。




  碑文:

     JIKAKU DAISHI
     Great World Citizen
     (サイン)
     Edwin O.Reischauer


円仁を研究テーマに選んだことについて、自伝でこう書いている。


 博士論文に全力を注ぐことにした私は、円仁(えんにん)の長大な日記の翻訳にまず集中した。死後に慈覚大師の称を追諡(ついし)された僧で、西暦八三八年から八四七年に至る中国留学時のくわしい記録を残している。
(中略)
 論文のテーマとして、これは申し分のない選択で、エリセーエフもウェアも円仁の翻訳を博士論文の主体にするように言い、私も日本と中国への興味がともに満たされるので面白かった。円仁の日記は歴史学的にも非常に重要な文献なのに、日本の学者によっては断片的にしか研究されていず、中国や欧米では全く無視されているという面白さもあった。
(中略)
 その円仁の日記、つまり『入唐求法巡礼行記』(にっとうぐほうじゅんれいぎょうき)は非常に長いもので、私の翻訳でも四百九ページの大冊になった。
 中国人以外の手による史上初の中国観察記、また世界でおそらく最初の日次記(ひなみき)としてきわめて面白く、七世紀から九世紀にかけて中国文明を日本に持ち帰った遺唐使についての最も詳細な記録でもある。その内容がいかに正確かは、円仁の足跡を日記により、ほぼ一マイルごとに現代中国の地図の上にたどり得ることからもわかる。円仁から四世紀以上も遅れて中国を歩き、イタリアに帰ってから数年を経て見聞を口述筆記したマルコ・ポーロ『東方見聞録』の大まかな記述とは大違いである。

ライシャワー自伝 エドウィン・O・ライシャワー 徳岡孝夫訳 文芸春秋 1987
* エリセーエフについては、[ ハル・松方・ライシャワーと松方幸次郎/国立西洋美術館 ] 参照

  ライシャワーがここを訪れた前年(1963年)、ケネディ大統領暗殺事件が起き、大使も多忙をきわめていた。この地に来たのはその影響がようやくおさまってきた頃のことで、自伝では、

社交のほうも、再び例のごとく忙しくなった。私たちは、東京に近い三県を訪問したが、そのうち栃木県では円仁の生地というのが二カ所もあった。

と書いている。長い期間をかけて博士論文を書き上げた対象の生地に来たわりにはあっさりしている。
まだ疲れていたのかもしれないし、自分を大使に抜擢したケネディを失い、後任のジョンソンに失望していた精神状況が反映しているかもしれない。

                ↓
 3 ライシャワーをめぐる山−美術館−建築


-  砂防ダム

 
村桧神社・大慈寺分岐に戻ろうとして寺の裏手に行くと、木材を組んだ砂防ダムがあった。石ころを積み上げた大規模なロックフィルダムはいくつか見たことがあるが、木材のダムは初めてみた。


0:55 村桧神社
1:05 展望地点
1:15 村桧神社・
    大慈寺分岐
1:30 京路戸峠
1:40 京路戸公園
 
村桧神社・大慈寺分岐に戻る道を見つけられずに、結局、村桧神社まで戻って、来た道を帰った。

* 経過時間からは休憩や見学の時間を除いています。


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