京路戸峠から佐野市立吉澤記念美術館で若冲を見る/
ライシャワーとアントニン・レーモンドと松方家の人々



 3-1  ライシャワーとアントニン・レーモンド/東京女子大学とアメリカ大使館


・ ライシャワーが青年の頃暮らした家が、アントニン・レーモンド設計であった。
・ 日本人の妻ハルと駐日大使として過ごしたアメリカ大使館と大使公邸もレーモンド設計であった。
・ 東京女子大学  http://www.twcu.ac.jp/


ライシャワーの父オーガスト・カール・ライシャワーは宣教師として日本にいて、のちにアメリカ大使になるその息子エドウィン・O・ライシャワーは1910年に明治学院キャンパス内の宣教師用住宅で生まれた。
父A.K.ライシャワーは、1918年に新渡戸稲造安井てつらと協力して東京女子大学を創立した。


一九二五年の秋、わが家は十マイルほど離れた東京郊外、東京女子大学キャンパス内にある新築の家に引っ越した。
ライシャワー自伝 エドウィン・O・ライシャワー 徳岡孝夫訳 文芸春秋 1987
(以下「自伝」と略す)

東京女子大学ライシャワー館


この家を設計した建築家はアントニン・レーモンドで、フランク・ロイド・ライト帝国ホテルを設計するのに関わって1919年に来日、ライトの帝国ホテルの仕事を離れてからも日本に残って事務所をもって仕事をしていた。
東京女子大学では、マスタープランの作成からはじめ、いくつかの建築を作った。

1930 図書館(現・本館として正門を入ると端正な庭の正面にこの建物がある)
1923 寄宿舎及び厨房(寄宿舎は現在は部室に使用。1室だけ当時の状態を残してある。厨房も現存するが、使われてはいない。)
1924 教官邸(住居としてではなく使用している)
1925 ライシャワー邸(1970年にライシャワーが大学に寄付し、ゲストハウスとして使用)
1937 礼拝堂・講堂

この頃のレーモンドは、ライトの影響から逃れるのに苦慮していて、教官邸の1つはほとんどライトの意匠であったり、別の1つでは、ライト調から逃れる拠り所として、生地チェコの当時の新潮流であったチェコ・キュビスムふうの暖炉があったりする。(写真左)
また中心から放射状に建物が伸び、中心に立つ者からは一望に監視できるパノプティコン形式で寄宿舎・厨房を設計したりして(右の写真はその上部の塔の外観)、レーモンドらしい建築が確立していない。



ライシャワーは、1927年にアメリカの大学に進学。
ハーバードの大学院の頃、指導教官のエリセーエフから、パリで2年、日本と中国で3年勉強したのち、ハーバードに設立予定の極東言語学科で教えてはどうかという提案があり、受ける。
1933年、パリに留学し、最初の妻となるエリノア・アドリエン・ダントンと知り合い、1935年、イタリア、スカンディナヴィア、ソ連、シベリア横断鉄道を経て日本に戻り、結婚した。

* エリセーエフについては、[ ハル・松方・ライシャワーと松方幸次郎/国立西洋美術館 ] 参照


ちょっとロマンチックな結婚式が、わが家で行われた。アドリエンは母親のウェディング・ドレスを着、司式は私の父、参列者は私の家族と二人の女中だけという式である。アドリエンには学校で教える仕事があったので、式のあと、私の両親は軽井沢に行き、新郎新婦のほうが家に残った。いわば逆のハネムーンだが、二ケ月ものあいだ旅から旅を続けてきた人間にとっては、これは申し分のない型破りであった。(自伝)


1937年には朝鮮、中国に滞在し、1938年アメリカに戻り、ハーバード大学日本語専任講師に就任。
1939年に円仁の研究で博士号を取得した。
1941年には真珠湾攻撃により日本とアメリカが戦争になる。


 日米開戦によって私の帰属心も一つの試練に遇ったはずである。事実、私は日本で生まれ育ち、日本を故郷と感じ、それまでの人生の半分を日本で過していた。個々の日本人と親しいだけでなく、日本の文化と国に敬愛を感じてもいた。だが自分が百パーセントのアメリカ人である自覚は一度も失ったことがなく、戦争中も基本的に悪いのは日本だと信じて疑わなかった。とくに民主主義の芽を摘み、海外へのあくなき拡張を図った軍部を憎んだ。
(自伝)


その前から国務省極東課で勤務するなど政府とつながりができていたライシャワーは、1943年から陸軍参謀部で仕事をしている。


戦争末期の一年半ほどの私の仕事ほど面白いものは、あの大戦中にも例が少ないだろう。日本陸軍やその配置に関する情報は、すべて私の手を通り、外交電報もほとんどを見た私は、日本の立場から戦争全般を眺めることができた。
(中略)
 日本側は、日本語はむずかしいから読まれないはずと、高をくくっていたらしい。とくに部隊の名称や番号などの暗号は破られないと信じ込んでいた。ところが、虎とか暁といった部隊名こそ規則はなかったものの、番号は部隊の種類によりブロックになっていたので、番号を見ただけでどういう部隊かがほぼ推測できた。また、日本側の通信を読むことにより、こちらの暗号がどれほど読まれているかもわかった。
(自伝)


ライシャワーは、日本でレーモンド設計の家に住み、のちに、やはりレーモンド設計のアメリカ大使館に大使として赴任するのだが、戦争中にも2人の軌跡は重なっている。
アメリカ軍は、戦争末期の本土空襲において、ただできあいの爆弾を落としたのではなかった。日本の家屋のつくりをよく知っている建築家レーモンドは軍に協力し、実験用に日本家屋を模した木と紙の家を建て、よく燃えて破壊力の大きい爆弾の製作に貢献している。
レーモンドは日本の建築に感動し、日本文化を敬愛していた。だからこそ戦争を早く終わらせようと考えたのであり、日本を攻撃する軍に協力することにためらいや矛盾を感じてはいなかったようである。

ライシャワーは1948年から49年にかけて、大学も専攻も異なる5人の教授からなる人文科学顧問団のメンバーとして日本を視察している。


 日本人が飢え凍えているときにアメリカ人だけがぬくぬく贅沢に暮らしているのを見て、私は後ろめたかった。多くのアメリカ人は、敗戦国民は苦しむのが当然というのか、日本人のことなビ心にとめなかったが、私にとって日本人は旧友であり、何百万の人間が飢えている中でアメリカ人だけが飽食しているのを正視できなかった。せめて少しでも助けようと、父を通じてアメリカの中古衣料や靴下を父が教えていた東京女子大学に送った。大学では靴下を編み直して売り、中古衣料のバザーも大成功したとのことである。
 日本人の苦しみは私の心に辣(とげ)のように刺さったが、同時に私は大きな希望を抱かずにはいられなかった。よりよい、正しく平和的な新日本を建設しようという意気が、至るところで感じられたからである。
(自伝)


レーモンドも、戦争が終わって日本での仕事を再開するために来日したが、すっかり焼け野原になった東京を見て、愕然としている。軍隊の動きを暗号で読んでいたライシャワーより、日本を愛し、しかも建築家であるにもかかわらず、日本人の住む家の破壊に関わってしまったレーモンドのほうが、衝撃は大きかったと思われる。

日本の理解者が、そのために日本との戦いの先頭に立ってしまうことの矛盾。
こうしたことは、この2人にだけ起きたことではなくて、またこのときの日米間の戦争にだけあったことではないのだろうと思う。
戦争がひきおこす悲惨は数多くあるに違いないが、戦争はこうした善意の人をつらい場面におとしこむ仕掛けでもあり、やはりあってはならないものだと思わされる。

→ [ まれびとのむろほぎ ] 参照


1955年、ライシャワーの妻アドリエンが亡くなる。
ハーバード大学燕京研究所長への就任を要請されるが、現状を知るために東アジア旅行に行き、帰国後に就任することが認められ、3人の子供をともなっての旅に出た。


東京に着いて何よりうれしかったのは、私が一九四八年から四九年にかけて住んだときと比ベて、日本が比較にならぬほど豊かになっていたことである。こんどの滞在のあとはハーヴァード燕京研究所の仕事で当分は来られそうにないと思った私は、子供たちの安全も考え、前もって東京女子大学のキャンパスにある昔のわが家を予約しておいた。門の銅飾りは戦争中に供出したまま失われ、母が丹精こめた庭も荒れ果てているのは寂しかった。大学のゲストハウスとして使われていたため調度類も少なく、学校側が十二月から二月までしか暖房を通さないためコンクリートの床は冷え冷えしていた。だが、何と言っても子供たちにはまたとない家であり、私も昔からのわが家の友人に囲まれ、快適な暮らしであった。
(自伝)


ときどき心臓が停止するという妻のための息の抜けない看病と、その後の死で、心身ともに疲れて来日したのだが、東京の外人記者クラブで偶然出会った松方ハルと結婚し、人生の1つの危機を脱している。

松方ハルの父方の祖父である正義(まさよし)は、通算15年間蔵相をつとめて日本の財政制度を確立し、1890年代には2度にわたって首相をつとめた。
母方の祖父・新井領一郎は、維新後まもない1876年、20歳でアメリカに渡り、そのころ日本にとって最大の外貨収入だった対米絹貿易に活躍した。
新井領一郎の娘ミヨ(=ハルの母親)は、ニューヨークとコネチカットでアメリカ人同様に育てられたのち、日本に帰り、松方正義の子、松方正熊と結婚した。

1915年生まれのハルも、東京のアメリカン・スクールを出たあとアメリカに留学し、イリノイ州のプリンシビア大学を出た。
1937年、日米理解に貢献しようと期待を抱いて日本に帰ったが、軍国主義の時代で、日米も戦争になり、失意の時期を過ごすが、戦後は「クリスチャン・サイエンス.モニター」や「サタデー・イヴニング・ポスト」誌特派員の助手になって働き、署名の原稿も書いている。

ハルとライシャワーには、日米双方に文化的な根を持ち、日米友好のために努力している点で共通性が多い。
妻を失った悲しみの中にいるライシャワーと、古い日本の男とも、日本を知ろうとしないアメリカ人とも、結婚することはあり得ないと覚悟していたハルとが、運命的な出会いをしたことになる。

1956年になって、2人は東京・青山で挙式したあと、披露宴を東京女子大学内で開いた。
また、この年には、アメリカに住むライシャワーの母が亡くなっている。


東京女子大学では盛大な葬送の礼拝が催され、わが家の五人は父が自慢にしていた簡素だが美しいチャペルでの式に参列した。
(自伝)


東京女子大学礼拝堂・講堂 1938 
左:外観
中央:この写真では見分けにくいけれど、一面の無色のガラスのなかに黄色いガラスが十字を描いている。レーモンドの光の教会。
右:レーモンドの妻ノエミによる祭壇のデザイン。百合と芦と樫の木。


同じ年、ライシャワーは3人の子と新しい妻を伴ってアメリカに帰国し、ハーバード大学燕京研究所長に就任している。

1960年に日本などアジア諸国を訪れて発表したレポートを見込んだケネディ大統領が駐日大使への就任を要請。
1961年、ハル夫人と、まだ高校生だった未娘ジョーンだけを伴って来日した。
羽田空港に降りた4日後に東京女子大学のライシャワー館を訪れている。


ライシャワー館はいま外国人のための迎賓館(げいひんかん)になっているが、一室を学報編集室として常時使用している。編集長の三宅文子さんは、当時をよく知る一人で、「ご夫妻が未娘のジョーンさんを連れてこの家にいらっしやったとき、ハウスキーバーの桑原モトさんはまだここで働いていて、ちょうど台所でクッキーを焼いているところでした。
 大使は懐かしい匂いに引き込まれたのか、玄関からすたすたと台所に直行すると、焼き上がったばかりのクッキーを一つつまみ上げてバタッと口に放り込まれたんですよ。
 そばでモトさんが「これ、これ、お行儀がわるいわねえ』なんて」
 とその日を思い出して目を細めたが、ライシャワー大使にとっては思い出がぎっしりつまった家であった。
(ハル・ライシャワー 上坂冬子 講談社 1994)


東京女子大学内のライシャワー館がそのように思い出深いものであるだけでなく、アメリカ大使館も因縁のあるところであった。


ハル夫人はここでしみじみとした口調で述懐するのであった。
「アメリカ大使館といえば、戦後はマッカーサー元帥の住居です。天皇陛下がはじめてマッカーサーと対面されたという応接間に立った私は、感無量でした。広さはテニスコートくらいだったでしょうか。天井は、見上げているうちに首が痛くなるほどの高さです。
 なぜ、私がしげしげと大使館の内部を見回したかというと、かつて私は大使館に入るのを断られた立場だったからです。忘れもしない、知人のアメリカ人ジャーナリストと二人でマッカーサー元帥宛ての手紙を届けに行ったことがあります。アメリカ人ジャーナリストはすんなり入館を許可されましたが、私は日本人だからという理由でジープから降りて門の外で待つように言われました。
 そんなことがあってから九年後に、大使の妻として来客をとりしきる立場になろうとは、それこそ夢にも思っていませんでした」
(ハル・ライシャワー 上坂冬子 前掲)


ここでふれられている大使公邸も、大使館も、東京女子大学内ライシャワー館と同じレーモンドが、1931年、ヴァン・ピューレン・マゴニクルに協力して設計した建築であった。


大使公邸は大使館の背後の丘に立つ優雅な建物だったが、道一つへだてたところにホテルオークラが建ってからは急に小さく見えるようになった。
 正面から入ると片方には美しくカーブした広い階段が、一方には大理石を敷きつめたポーチがある。その玄関ホールとポーチに続いて二十人がゆったり食事できる小食堂がある。大食堂は五十人を入れてなお余裕があり、さらに奥行き百ヤードは優にあろうかというレセプション・ルームがある。一番奥の柱の前で略装のマッカーサーと正装の天皇が並んで写真をとったので有名な部屋である。同じ一階には小書斎があって、これも普通の家なら居間として通用する広さがある。この書斎以外の各室の天井は恐ろしく高く、その証拠に私たちが離任前に他国の大使連中を招待したときレセプション・ルームでバドミントンをしたが、羽根は一度も天井に触れなかった。一階はどこも、およそ家という感じがせず、国立美術館にでも住んでいるようだった。
(中略)
 二階の反対側にはもう一つの続き部屋があり、これがマッカーサー元帥の起居した部屋である。私たちは在任中ずっとこの部屋を愛用したが、枕辺に英雄の亡霊が立つようなことは一度もなかった。まもなくハルが部屋に至る廊下に仕切りとドアを取り付けさせたので、いっそう自宅のような感じが増し、私たちは自由な時間の大部分をそこで過した。
(自伝)


この公邸に置く美術作品は、ニューヨーク近代美術館から貸し出されていた。ライシャワーが就任後初の帰国時に選んだのだが、とくに気に入っていたのは日本の書を連想させるクラインと岡田謙三のアブストラクトだったという。
今も続くようなルールとしてあるのかどうかわからないが、美術館の作品を大使館に貸し出すのが面白い。アメリカの国策としての美術振興という背景もあるのかもしれない。
ニューヨーク近代美術館の美術品貸出し期限が1964年に切れたあとは、探偵ペリー・メイスン役を演じたレイモンド・バーが自分のコレクションを貸している。


1963年、ライシャワーを高く評価し、ライシャワーのほうでも尊敬していたケネディ大統領が暗殺される。ベトナム戦争などによる対米感情の悪化もあり、大使職への意欲をしだいに失う。
ライシャワー自身も刺傷事件にあうが、日米関係が支障がないよう、なおしばらく在任したあと、1966年に離任して帰国した。
送別にあたり、佐藤栄作首相は松方正義の書の掛軸を贈っている。


アントニン・レーモンドは
1919年−1973年、日本で仕事をした。途中、
1938年−1948年、日米戦争によりアメリカに帰っていた。

ライシャワーは
1910年−1927年、東京に生まれてから、大学入学のため渡米するまで滞日。
1935年−1937年、パリ留学から日本に渡り、朝鮮、中国を経てアメリカに戻る。
1948年−1949年、人文科学顧問団のメンバーとして日本を視察。
1955年−1956年、ハーバード大学燕京研究所長への就任前の研究のため日本滞在、ハルと出会い、結婚した。
1961年−1966年、アメリカ大使。

ライシャワーとレーモンドが直接会ったという記録は見つけられないのだけれど、2人は同じ時期に日本にいたし、ライシャワーはレーモンド設計の建築に住み、レーモンド設計の建築で仕事をした。戦争中の日本との関わり方も共通している。不思議な関係である。


レーモンドが設計した東京女子大学の建築は、図書館が現・本館として正面に位置して大学の象徴の役割を果たし、そのほかの建物もほぼ、それぞれ大切に使われている。




アメリカ大使館は、1976年、シーザー・ペリの設計で新たにつくり替えられたが、公邸は現在も使われている。
2001年に、アメリカ国務省は海外にあるアメリカの歴史的・文化的に価値の高い施設を維持、保存する目的で、「重要文化財」として認定する新世紀記念事業を創設した。
東京の大使公邸も、プラハの大使館、モロッコの公使館、ロンドンの大使公邸などと並んで選ばれた。



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