| 飯盛山から清里フォトアートミュージアム |
| 2 | 清里の1 − 小海線 ・ 高根町 ・ キシャヤスデ ・ 空高くハイキング |
| ■ 清里駅はJR最高地点駅である野辺山駅の隣にある ■ 小海線は20年かかって開通した ■ なぜ「清里駅」が高根町にあるのか? ■ キシャヤスデが列車を止める ■ 空高くハイキング 自然科学列車 −70年前のJTB ツアー |
| ■ 清里駅はJR最高地点駅である野辺山駅の隣にある 飯盛山を歩くのに、鉄道を使う場合には野辺山駅から出発して清里駅に向かうコース(またはその逆)が一般的である。 野辺山駅はJRの駅のうち最高地点にある(標高1345m67cm)ことで有名だが、長野県南牧村(みなみまきむら)にある。 (群馬県には同じ字をかいて南牧村(なんもくむら)がある。) 野辺山駅と清里駅の間にJRの最高地点(標高1375m)がある。 最高地点より西(小淵沢側)に降った雨は富士川に流れて静岡県富士市で太平洋に注ぎ、最高地点より東(小諸側)に降った雨は千曲川に流れて、やがて信濃川となり、新潟で日本海に注いでいる。 標高1位の駅の隣の駅である清里駅は山梨県高根町にある。 野辺山駅は1番高いので有名で、看板やらモニュメントなんかもあったと思うが、1番高い駅の隣の駅も、当然ずいぶん高いところにあって、清里駅が1276mで2位である。 ■ 小海線は20年かかって開通した 小海線の東端、小諸側では、1893に高崎−直江津間が全通している。 西の小淵沢側では、1904年に富士見駅まで開通している。(中央本線は1911年全通) 小海線の小諸−小淵沢は以下のように段階的に伸び、1935年に清里と信濃川上間が開通して全通した。小諸から線路が伸びはじめてから20年かかっている。 小諸 ↓ 1915.8 中込 ↓ 1915.12 羽黒下 ↓ 1919 小海 ↓ 1932 佐久海ノ口 ↓ 1935.1 信濃川上 ↑ 1935.11 (野辺山) ↑ 1935.11 清里 ↑ 1933 小淵沢 ■ なぜ「清里駅」が高根町にあるのか? 清里駅は高根町にあるのに、なぜ清里駅なのだろうと不思議に思う。今の感覚でいうと「清里」のほうがよほど広域ブランドだし、鉄道が開通したときに清里駅としたのも妙である。 アメリカ人のポール・ラッシュ博士が清泉寮を創設したのも、鉄道の開通よりあと、1938年である。 その理由は村の合併で、はじめに安都玉(あつたま)村、安都那(あつな)村、熱見(あつみ)村、甲(かぶと)村が1954年に合併して高根村が誕生。 清里村が1956年に加わったあと、1962年に町制がしかれて高根町になっている。鉄道が開通したときに駅があったのは清里村だった。 そうしてできた高根町は東西6.7kmに対して南北が20.9kmと、たてに長い。北の端は八ヶ岳連峰の主峰、赤岳山頂(2,899m)で、南端は標高600m程度。すごい標高差がある。季節が1こ分とはいわないまでも、1/2くらいは、ずれているのではないかと思う。 ■ キシャヤスデが列車を止める (大量の虫がモゾモゾする話です。このての話が苦手・嫌いな方は、この項を読みとばしてください。食事や就寝の直前も避けることをおすすめします。 →次へ) 小海線は、標高日本一や、清里高原で知られるが、ヤスデが大量に現れて線路妨害をすることも、ほかの路線ではあまりきかない特徴である。 ヤスデは、ふつうにはゲジゲジといわれるものの1つ。節足動物のうちの多足類の1つで、体がたくさんの節にわかれ、それぞれに1対か2対の足がある。カリフォルニアには750本の足をもつヤスデがいるという。 陸生動物ではもっとも起源が古く、4.2億年前の地層から化石が発見されている。 小海線はしばしばヤスデの発生に悩まされている。 1976年の9月に始まった大発生はすさまじいもので、急傾斜の線路でひきつぶされたヤスデの体液で車輪が滑って危険なため走れなくなったり、線路にこびりついた死体で信号機が働かなくなったりした。この対策に、ほうきで掃く、線路にガムテープを貼ってヤスデが登れないようにする、殺虫剤をまく、火炎放射器で焼き殺す、などしたが、10月末に寒さでいなくなるまで列車妨害がつづいた。 ヤスデの妨害は、1935年に小海線が全通後、早くから現れていて、そんなことからキシャヤスデという和名が、1937年につけられている。 同じ1937年にはヤスデに備えて防虫塀を設置したという記録があるし、今、高根町に住む叔父にきくと、1940年代に疎開してきた頃はSLが走っていて、ヤスデのスリップ対策に砂を積んでいたという。 ヤスデは卵から成虫まで7年かかる。ある年の集団が他の年より格段に数が多いものだから、その子の代も大集団になって、7年から8年目ごとに大発生が繰り返されている。鉄道妨害も当然その大発生の年には多くなる。 ヤスデについての悪夢− 朝早く出発して西の登山口から登って、山頂を越え、東側に降りてきた。もう少しで今日の歩行は終わりというところで、細い山道がヤスデの大集団で占拠されている。右は崖、左も絶壁が落ちていて迂回はできない。ヤスデは数メートル先まで道をおおいつくして、モゾモゾと蠢いている。その集団の先まで、ひとまたぎで越えられる距離ではない。 踏みつぶしながら突進するか、延々と長い道を戻るか...
ヤスデに限らず、ムシ関係の研究者には、こういう確信犯的な人が多いらしい。 もともとはきっと素朴な「ムシが好き!」というところから出発したのだろうけれど、そこからこういう美学的認識に至ってしまうこともムシ研究の世界の面白さだ。 ヤスデが美しかったり、可愛かったりとは思えないまでも、ヤスデにもりっぱな存在理由がある。 落ち葉を食べるので、ダニと同様、林の中の清掃役をしている。 また、ヤスデは多くの動物に食べられる。つまり多くの動物を養っている。 ホタルのなかにはヤスデを専門に食べる種類もあって、夏の夜、草むらをホタルが飛ぶ幻想的な風景をヤスデが保証しているということもある。 人間の感覚では気持ち悪くても、地球の生命の連鎖に欠かせない存在である。 「列車を襲うヤスデの生活史と大発生周期」 新島渓子 1984 「キシャヤスデ類の大発生」 新島渓子 篠原圭三郎 1988 「埼玉のキシャヤスデ」 中村修美 2001 「多虫類読本 ムカデとヤスデの生物学」 田辺力 東海大学出版会 2001 ■ 空高くハイキング 自然科学列車 −70年前のJTB ツアー 1934年に、「空高くハイキング 自然科学列車」という旅行企画があった。 清里まで1933年に鉄道が開通した翌年のことである。まだ野辺山方向には伸びていなくて、清里駅が終点だったし、清泉寮も、まだないころのこと。 その募集チラシを見たのは、パルテノン多摩歴史ミュージアムで開催された特別展「郊外行楽地の誕生 ハイキングと史蹟めぐりの社会史」 ( 2002.8.24 - 9.23 開催) においてだった。 その図録によると、1912年(明治45年)に鉄道院が中心となり、外貨獲得のための外国人旅行客の誘致をすすめるためにジャパン・ツーリスト・ビューロー(今のJTB)が設立されている。 1925年(大正14年)からは、対象を日本人にも拡大し、乗車券の販売代行や、クーポン式遊覧券の発行も始めている。 大正末期からは、不況の影響もあって地方の鉄道局や各地の私鉄も生き残りをかけて観光の宣伝にのりだしたという。 そういう時代背景のなかで、1934年の「空高くハイキング 自然科学列車」の企画も生まれたものらしい。 その募集チラシの主要な内容はこんなふうである。
清里駅に午後7時54分に着くのだから、もちろんあたりは真っ暗なはずである。それから美しの森まで歩き、テントを張って自炊するという、ずいぶんきつい旅程である。 服装の注意が時代を感じさせる。まだ和服が日常生活でふつうに着られていたのだろう。 指導講師の顔ぶれがすごい。 松村松年(まつむらしょうねん1872−1960)は「日本昆虫学の開祖」と言われる人。 札幌農学校を卒業(1895)、その後北海道帝国大学農学部で昆虫学教室を主宰した。 初期の著書『日本昆虫学』(1898)は、日本人による最初の昆虫学テキスト。 名前がかっこいい。明智小五郎の怪人20面相シリーズにも登場している(のは小林少年か)。 牧野富太郎(1862-1957)は日本の植物学における偉大なパイオニア。 独学で植物の研究をきわめ、アカデミズムとは微妙な距離があって、1939年まで47年間東京帝国大学理学部講師の職にあった。 集大成が「牧野日本植物図鑑」。 野尻抱影(のじり・ほうえい1885〜1977)は文学者で、星に関する多くの著作がある。作家の大仏次郎の実兄。 茂木慎雄という人はよくわからないが、「キャムピング」(1956)や、「遍路随筆」(1943朋文堂)という著書があるから、アウトドアの指導者とか、旅行作家とかいう人だろうか。後者の本には石井鶴三が挿絵をかいている。 豪華な顔ぶれに加えて、指導者たちの年齢にも驚かされる。 野尻抱影49歳は妥当なところとして、松村松年は62歳。北海道帝国大学を定年退職したその年の夏のこと。 当時の年齢についての感覚では、60歳を越えると、もうすっかりおじいさんに感じられていたろうと思う。 さらに牧野富太郎は72歳。 このあとまだ23年生きたのだから、元気だったには違いないし、一般の人向けの啓蒙活動に熱心だった牧野にとってもこういう企画には積極的だったと思われる。 それにしても、72歳でテント泊の野外観察の指導にでかける!! ところで、健康な青少年少女200名は集まったのだろうか。 好天に恵まれて順調にハイキングは行われたのだろうか。 企画は成功して、ジャパン・ツーリスト・ビューローはまたこういうツアーを実施したろうか。 10代半ばで参加した人がいれば、今80歳くらい。話を聞いてみたい。 |
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