| カーレンベルク山からウィーンのミュージアムと建築
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| 3 | ユダヤ フロイトの旧居は現代美術のギャラリーに |
| ユダヤ博物館 / 分離派館 / カフェ・ツェントラル / フロイト博物館 / シナゴーグ / ウラニア天文台 / 軍事史博物館 |
| ウィーンのユダヤ人は古くから迫害された歴史があるが、フランツ・ヨーゼフI世の1867年には法的平等が実現し、社会に重要な位置を占めるようになっていた。テオドール・ヘルツルがユダヤ人国家建設を目指すシオニズム運動を開始する一方で、ウィーンは反ユダヤ主義の中心地ともなり、ヒトラーに決定的影響を与えた。 1938年にヒトラーがウィーンに舞い戻ると、18万5000人いたウィーンのユダヤ系市民は、10万人が国外に逃れ、65000人が収容所などで死亡し、生き残ったのは2000人だけだった。(計算が合わないのだが、見た限りの資料では明確にならなかった。資料によっては生き残ったのが5000人ともあったりする。) ナチス期の強制収容所全体では600万人のユダヤ人が命を奪われたといわれる。このとんでもない数がいったいどういうことなのか、思い及ぶ範囲を超えてしまっている。大量殺人が、物語や、1人の異常な頭脳のなかの妄想ではなくて、現実的なシステムとして機能したということに圧倒される。 ユダヤ人の住居や財産は、いわば合法的に分配され、あたかもナチスの経済政策の成功のように歓迎された。現在も、一度奪われ分配されてしまった財産はユダヤ人に返還されていないし、充分な補償もされていないという。 |
| ■ ユダヤ博物館 Juedisches Museum der Stadt Wien 1区 Dorotheergasse 11 http://www.jmw.at/ 1897年ウィーンでオープンした世界最初のユダヤ博物館。 ナチスの時代に閉鎖され、1993年、旧エスケレス宮殿にユダヤ博物館が再オープンした。
博物館の導入部にあたる部屋の壁いっぱいに、オーストリアで活躍したユダヤ人の名前と生没年が記してある。メモしかけたが、片面の壁だけ記して、あとの半分は諦めてしまった。僕でも知っている名前だけを書こうとしたのだが、それでも、え、この人も?と思いながら書いていって、半ばで放棄するほど、よく知られた人が何人もいた。 いくつかを写してみると、 ペーター・アルテンベルク カール・クラウス フーゴ・フォン・ホフマンスタール フランツ・カフカ アルトゥール・シュニッツラー シュテファン・ツヴァイク ヘルマン・ブロッホ ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン グスタフ・マーラー アルノルト・シェーンベルク リヒャルト・ゲルステル フリッツ・ラング ジグモント・フロイト ヴィクトール・アドラー など。 ウィーンの文化はユダヤ人抜きには語れない。 美術館で絵画作品を見るのと違って、この博物館では言葉がわからずに展示を見ることに重大な落ちや勘違いがありそうな不安がある。が、見た限りでは、とくにユダヤ迫害に重点を置いてはいなくて、ユダヤの民俗や歴史を静かに提示しているという印象だった。ただしその中にはもちろん迫害を受けた歴史も含んでいる。 2つのビルの間に仮設的な屋根をかけて資料の展示スペースにしていたり、合板で、やはり仮設的な印象のある大きなトイレが作ってあったり、きまじめばかりでない意匠心が楽しい。 |
| ■ ウィーン分離派館 Secession (u1.2.4) Karlsplatz http://www.secession.at/ 分離派が結成された翌年の1898年、その展示施設として作られた。新興の芸術グループにいきなり展示施設ができたのは強力なパトロンがあったからで、出資したのはユダヤ人の工業家カール・ヴィトゲンシュタインで、その子が哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)。
独自な人生をおくった哲学者で、アドルフ・ロースと建築論をかわす仲でもあった。 クリムトの「マルガレーテ・ストンボロー・ヴィトゲンシュタインの肖像」1905(ミュンヘンのノイエ・ピナコテーク所蔵)に描かれているのは、ヴィトゲンシュタインの姉。マルガレーテは変わり者の弟に家の設計を依頼して1928年に完成している。 この家は現存しているが、見に行く時間がなかった。 ヴィトゲンシュタインの主著『論理哲学論考』は、だらだらと文章がつながっていない。番号がふられた短い断定的な命題が並んでいる。最後は「言いえないことについては沈黙せねばならない」 そういう哲学者にふさわしく、またロースの友人であるのにふさわしくもある、装飾のない、ミニマルな建築だという。 短い旅行だから、諦めざるをえなかったもの、見落としたものは、いくつもあるが、これも心残りになった。 ■ カフェ・ツェントラル Cafe Central 1区 Herrengasse14 今も入口に等身大の人形が置かれているほど、このカフェになじみだったアルテンベルクもユダヤ人。アドルフ・ロースが親しくしていて、アルテンベルクがアム・シュタインホーフ教会に入院すると、ロースは何かと面倒をみたという。 トロツキーもここでオーストリアの社会主義者たちと会っていたことを自伝に書いているが、そのトロツキーもユダヤ人。のちに対決したスターリンは、そのことも攻撃材料にした。 スターリンは野卑な人だったらしいが、トロツキーは知的な人で、フロイトの講演を聞いたりしていた。 |
| ■ フロイト博物館 Siegmund-Freud-Museum 9区 Berggasse 19 精神分析学の創始者ジークムント・フロイトの住居兼診療所だったところ。 幼いフロイトを連れた一家がメーレン(今はチェコにある都市)からウィーンにでてきた当初は、低層のユダヤ人が住むレオポルトシュタットに住んだ。大学をでて医師になり、数回の転居を経て、大学や総合病院に近く、教授や医師、弁護士、ジャーナリストなどが多く住むこの地に落ち着いた。 フロイトもユダヤ人で、1938年にロンドンに亡命し、ウィーンに戻ることなく亡くなった。 トロツキーはフロイトの精神分析学に興味をもつ一方、フロイトの仲間の医師で、貧しい人たちの診察にあたっているうちに社会改革を目指すようになったヴィクトル・アドラーとも親交があった。 フロイトに師事して精神医学を学んだヴィクトル・エミール・フランクルViktor Emil Frankl(1905-1997 )もユダヤ人で、ナチスにより強制収容所に送られた体験を、『夜と霧』に残した。1955年からウィーン大学教授でもあった。
フロイトの住居が博物館になっているとガイドブックにあったので、一戸建てだと思いこんでいたが、大きな共同住宅の一部だった。1階のインターホンで来館を告げてから、階段を上がり、2階の入口から入る。 フロイトの資料が展示されているほか、美術作品のギャラリーにもなっているのがおもしろい。 作品はジョセフ・コスースJoseph Kosuth が選び集めたもので、Franz West、Heimo Zobernig、Sherrie Levine、Jenny Holzer、Clegg & Guttmann、Ilya Kavakov などがある。
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| ■ シナゴーグ Stadttempel 1区 Seitenstettengasse 4 新古典主義の建築家ヨーゼフ・コルンホイゼルJ.Kornhausel 1824-26の設計で建てられた。 ナチスは1938年11月9日の「水晶の夜」にウィーン中のシナゴーグを破壊したが、ここだけはほかの建物と複合しているために、唯一破壊を免れた。 ゲシュタポ本部跡から、ルプレヒト教会を見て、シナゴーグ前を通って、シュテファン寺院のほうに向かったのだが、シナゴーグ前の通りにはとくに何か用があるようにも見えない男2人が立っている。ゆるやかにカーブする、石畳の道。映画の1シーンのような風景で、ほかに人も通らないし、カメラをだすのをためらわせる雰囲気があった。 |
| ■ ウラニア天文台 Urania Sternwarte 1区 Uraniastraße (U1.U4)Schwedenplatz (路面電車1.2)Julius-Raab-Platz マックス・ファビアニ設計 1909-10 成人教育のためだけに作られた最初の施設とのこと。 第2次大戦後「ウィーン幻想派」にアリク・ブラウアー(Aric Brauer 1929-)というユダヤ人がいて、こんな文章を残している。 ヒトラーの下での私の芸術的活動は、ウラニアに行ったことで持ちこたえた。そこでは別の身分証明書を提示する義務なしに、コース参加者の証明書を手に入れることができたが、それはのちに何度か私の命を救った。」 (世紀末ウィーンとエロティシズム 中村隆夫 安田火災東郷青児美「ウィーン世紀末展レオポルド・コレクション」 図録 読売新聞社 1997 ) ウラニア天文台の壁面にはヒトラーの大きな肖像が掲げられていたのだが、中身は社会教育施設であって、こんなふうにさいわいすることもあったようだ。 |
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| ■ 軍事史博物館 Heeresgeschichtliches Museum 3区 (路面D)Sudbahnh ウィーンではいろいろなところに行ったけれど、ここだけはあまり気が進まないまま、どんなところか一応見てみようというつもりで出かけた。 正面の異様な意匠が、また誘われるどころか、う~ん、という感じだったが、ヴェルベデーレからちょっとした距離を歩いてきたことでもあり、入らずに帰るのもちょっとなあ、と思い直して入った。 チケットを売るのが、現役の軍人が交代で売場についているかのような、いかつい男。 厚いガラスで隔てられていて、ガラスの下のすりばち状の皿に料金を入れ、回転させて向こうの男に渡すと、今度はチケットが置かれて回転し、こちらに渡される。厚いガラスによって、直接の威嚇や攻撃を防ぐしくみになっている。いつかフランスのガソリンスタンドにこういうのがあったが、ウィーンでは初めてみた。(僕が歩いた範囲ではここだけだった。)軍事の博物館だから安全のためのデモンストレーションとしてあるのか、それとも現実的な危険の可能性があってのことなのか。どちらにしても、博物館の入口にしては重装備だ。
展示してあるのは、16世紀後半から1945年のファシズムの戦争の終わりまで。オーストリアの歴史はほとんど戦争の歴史で、ウィーンに最初に作られた博物館が軍事博物館であることも象徴的だ。 自国の戦争は正しく、たくさん敵を消滅させた人は英雄であって、その戦いの様子や、肖像や、戦功を讃える勲章や、位階をあらわす服やアクセサリーが並んでいる。 ウィーンでは学校から外に出て、博物館や美術館で見学する子どもや学生をよく見かけたが、ここでもいくつかのグループが見学中だった。 制服の現役軍人も数人見て回っていた。 この展示が愛国心を固めるように作用しているのだろうか。 ここ一帯が武器の製造工場であって、その前面に配置された軍事博物館には、軍がむきだしになるのをやわらげる役割があった。 ゲルハルト・ロートがここを訪れたとき、案内者が「宥和をもたらす礼拝的な建物として当時の軍のために祓い清めの寺院を建てたのであります。」と語ったという。(『ウィーンの内部への旅 死に憑かれた都』 ゲルハルト・ロート 須永恒雄訳 彩流社 2000)。 中の展示を見ながら、戦死者の鎮魂の宗教施設がほとんど軍事博物館である東京の神社を思い出していたのだが、こうした施設には共通する精神が備わるようだ。 ◇ ◇ あとあじのよくない、もやもやした気分で博物館をでた。前の庭のベンチに数人の少年が座っていた。日本でいえば小学校高学年くらいだろうか。1人の少年がちょっと嫌な口調で声をかけてきた。わからないふりをして通りすぎると、うしろから悪口をいうのが聞こえてきた。僕にもわかる英語の侮蔑表現だった。無視されたのでひとことふたことチェッという感じで言ってみるという程度ではなく、これくらいの言葉がわからないヤツには、何をいっても許されるとでも思っているふうに、しばらくの間、知っている限りの悪意の表現をぶつけているふうだった。1人の少年がいい続けていて、他の少年はのるでもなく、とめるでもなく、いうにまかせているようだった。 ウィーンで人種差別的視線を受けたという人がいる。 オペラやコンサートや美術館を目当てにやってくる観光客をウィーンの人々は内心では軽蔑して「生半可な教養の雌牛halbgebildete Melkkuhe」となづけているという。 は、1873年に万国博覧会開催中のウィーンを訪れた。その記録で、やはりウィーンを五稜郭(記録の文章では五稜角)にたとえている。 1873年の岩倉使節団の記録ではウィーンの人の性情をこう記している。 此国は、欧洲にて、多種成国と称する国にて、国民に族類の繁きこと、実に混雑を極めたり、(中略)此国は同種人のみ居住したる州は一もなし、故に各聯邦中に、政治をなすこと甚た困難なり、且久しく封建の国にて、貴族甚た多く、人みな門地に矜(ほこ)り、爵位を重んし、上等の民は豪華を競ひ、下等の民は、其圧制に服し、欧洲にて貴栄なる国体なりと誇りて、頗る夜郎自大の心あり、(特命全権大使米欧回覧実記 前掲) 政府の訪欧団としての短期間の滞在に、「夜郎自大の心あり」と判断させる具体的ななにごとかがあったとは思えないが、公的記録にこうした言葉を残すだけの根拠は何かしらあったのだろう。 ウィーンの街を歩いているのは楽しいことだったが、いつかどこかで牙がむかれるかもしれないといううっすらとした不安があった。楽しくない博物館を見たあとに、不愉快な言葉を投げてくる少年にあって、やはりここには来なければよかったと後悔した。 とはいえ、やはり見ておいてよかっとも思う。 第一次世界大戦のきっかけとなった暗殺事件の被害者の王族が着ていた服を展示している! どういうつもりでこういうものを展示するのだろう。フランツ・フェルディナント皇太子は人気があったというから、惜しむ気持ち、無念の気持ちをかきたて、愛国心を催させているのだろうか。
1938年にオーストリアがドイツと合邦すると、軍事博物館にはヒトラーの像が置かれ、兵器廠はナチスの施設となった。 1945年、ソ連軍が兵器廠のナチス親衛隊を鎮圧した。 |
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