カーレンベルク山からウィーンのミュージアムと建築

 1/4赤いウィーンⅡ  4か国の共同占領と『第三の男』


シュテファン寺院シュヴァルツェンベルク公園 ソ連軍解放記念碑シュヴァルツェンベルク宮殿プラーター


オーストリアはナチスのドイツと一体になって第2次世界大戦を戦ったが、1945年4月13日にソ連軍がウィーンを占領し、1938年にナチスを歓迎したレンナーに新政府を作らせた。
アメリカ、イギリス、フランスの軍もオーストリアに入り、オーストリアは4国の分割占領になり、ウィーン都心部も4国の共同管理下におかれるようになった。この頃の奇妙な状況が映画「第3の男」に描かれている。

オーストリアと占領国は国家条約を結び、占領体制は1955年に終わる。連合国はヒトラーに協力したオーストリアの責任を問わないことに同意した。
オーストリアは永世中立を宣言し、オーストリアは侵略者ではなく犠牲者であるとふるまうことが可能になった。


■ シュテファン寺院
Stephansdom 1区 Stephansplatz

正面の壁、入口の右側に「05」と刻まれている。
0(ゼロ)はO(オー)、5はアルファベットの5番目のEのことで、オーストリアOesterreich の最初の2文字を示していて、ナチスに抵抗するグループが記した。
戦争が終わると、ソ連も、オーストリア内部の職業政治家も、オーストリアを解放したと主張できるレジスタンスを敬遠し、ウィーンのレジスタンス勢力「05」の指導者は逮捕された。



■ シュヴァルツェンベルク公園 ソ連軍解放記念碑
Schwarzenbergplatz

カールスプラッツ・ミュージアム(ウィーン市歴史博物館Wien Museum Karlsplatz)からベルヴェデーレ宮殿に行こうとしていたとき、ちょうど昼どきになった。マクドナルドがあり、ウィーンのはどんなだろうと入ってみた。システムも味も日本と同じだった。

その前の通りがシュヴァルツェンベルク通り。
ウィーンは環状道路リングに囲まれ、その内部も道は交錯しているが、シュヴァルツェンベルク通りは、距離は短いにしても、広く、見通しがきいて、軸線を感じさせる。
通りの市街地側のはしは、ビルに斜めに突き当たっている。郊外に向かう側は公園にぶつかる。

その公園によってみた。中央に高い像がそびえ、その背後を列柱の半円環が囲んでいる。像は歴史上の人物かと近寄ってみると、ロシア語で由来らしきものが書いてある。後ろの環にもロシア語がジェニー・ホルツァーの文字作品みたいに刻まれている。
兵士が手にもつ傘状のものには、ソ連の鎌とハンマーのマーク。




ウィーンから帰って調べてみると、ソ連が、ファシズムからオーストリアを解放した記念と、戦いで死んだソ連軍兵士の慰霊と賞賛のために作ったものだった。
作ったのが1945年で、ずいぶん手早い。ウィーンを占領して間もなくに着手したみたいだ。
オーストリアは、まったく意志に反してナチスに占領されていたのではなくて、ファシズムの側に立って戦っていたのだし、今でも、「ナチスは少々やりすぎたにしてもそう悪いことではなかった」と考える人が少なくないくらいの国だから、この記念碑はずいぶん目障りだろうと思う。
後ろの列柱の環の両端には、戦うぞ!突撃するぞ!という構えの兵士像が置かれているが、攻撃の姿勢がウィーン市街を向いている。方角はたまたまにしても、愉快なことではないに違いない。
兵士像の前に噴水があり、僕が行ったときには修理中で水がでていなかったのだが、盛大に高く吹き出させて後ろの像を見ないですむようにしているという。
その気持ちはわからないではない。

それにしても、ウィーンはハプスブルグの王宮を中心に平和な観光の都市というイメージを演出しているが、まだ人の記憶にそう遠くない時期に限っても、いくつものトゲがささっているのだと思った。
ゲシュタポ本部跡、高射砲台、ソ連のファシズム解放記念碑など。
そういう重層が、都市を読んでいくおもしろさを深めているともいえる。


□ シュヴァルツェンベルク宮殿
Hotel im Palais Schwarzenberg
http://www.palais-schwarzenberg.com/

ソ連軍解放記念碑の後ろの樹木の、さらに裏側に、シュヴァルツェンベルク宮殿があり、ホテルになっている。(できた順にいえば、宮殿と市街との間に割り込むような位置に解放記念碑が作られた。)
もとは、フォンディ伯がベルベデーレと同じヒルデブラントHildebrandt設計で作り、終盤にエルラッハ父子が加わった。1697-1704/1716-22。
1716年シュヴァルツェンベルク家の所有になり、第2次大戦で被災し、廃墟になった。
チェコスロバキアからウィーンに亡命してきたシュヴァルツェンベルク家の末裔カール・シュヴァルツェンベルクが、この宮殿を含む財産を相続してから復興につとめ、今はウィーンで最高級のホテルになっている。




■ プラーター
Prater 2区

日本が公式初参加した1873年のウィーン万国博覧会が開かれたところ。
ウィーンが4国に分割占領されていた時期を舞台にした『第3の男』では大観覧車Riesenradが使われた。
O.ウェルズが観覧車から降りながらJ.コットンにいう。
「ボルジア家の30年の圧政はミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチのルネッサンスを生んだが、スイスの500年のデモクラシーと平和は何を生んだ?鳩時計さ」。
この言い方にならって、ハプスブルグ末期、19世紀末から20世紀初頭のウィーンはかずかずの文化的輝きを放ったが、ファシズムと永世中立のオーストリアは何を生んだ?-という問いをたててみると、答えがでてこない。



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